ヒストリー
1923
開業当初に商標出願した虎印マーク
創業者初代社長、菊池武範の“魔法瓶”との出会いは、初めて大阪に出た奉公時代の1910年(明治43年)。伊藤喜商店が輸入し、大ヒットした「テルモスびん」と呼ばれる魔法瓶でした。
冬場に冷めたお茶をご飯にかけて食べる奉公生活の中、常々「熱いお湯(茶)がいつも飲めたらなあ」と思っていた菊池武範は、魔法瓶を目の当たりにし、将来性のある商品として魅力を感じたのです。そして、1923年(大正12年)2月3日。武範は国内の魔法瓶製造会社「イーグル魔法瓶」での経験を経て、「虎印魔法瓶製造卸菊池製作所」を創業。日本国内向けに「虎印」の魔法瓶の製造・販売を開始しました。
伊東喜商店が輸入した最初の魔法瓶
当時の宣伝ビラ
1923
関東大震災でも無傷だった虎印魔法瓶
1923年(大正12年)9月1日午前11時58分44秒。マグニチュード7.9の大地震が関東地方一円を襲いました。史上最大の地震災害として記録に残る関東大震災。菊池武範が東京で取引を始めて間もない頃のことでした。
しかし、他ならぬこの関東大震災こそが、虎印魔法瓶の評価を一挙に高めることとなりました。商店に保管されていた他社の魔法瓶の大部分は壊れてしまいましたが、虎印魔法瓶が納品した100本すべては無傷で残ったのです。
1本も壊れなかったという事実はすぐに業界に知れ渡り、東京中から注文が殺到。3年後には東京市場の85%を占めるまでになりました。
1930
海外進出。台湾と満州の貿易に乗り出す
1930年(昭和5年)、菊池武範は病の床にありました。そんな中、国内の深刻な不況の様子を聞かされ、国内販売がこれ以上望めないことを悟り、台湾と満州の貿易に乗り出すことを決めました。
販路開拓のための商法が見事に当たり、タイガーブランドの名は高まり、1932年(昭和7年)には、内地と外地向けの販売比率はほぼ同じとなりました。
1931
魔法瓶、驚きの製品バリエーション
開業早々に発売した「五倍力魔法瓶」は後に人気商品にはなりましたが、当時はまだハイキングや旅行で持っていれば便利という程度で、国内需要は低いものでした。
そんな中でも、新しい製品を続々と開発。口の部分に哺乳用の乳頭をかぶせた乳瓶(保温哺乳瓶)、“酒の冷めない魔法瓶”をうたった魔法瓶徳利。また、アイスクリームを入れるための容器の開発や、釣った魚を冷蔵して運ぶためのアユ釣り用の魔法瓶…と、驚くべき製品が開発されていきました。
1950
ハンディポットの草分け的存在「ベークライト製卓上ポット」
魔法瓶といえば携帯用と考えられていた時代に、ペリカン型注ぎ口と、ワンタッチでフタがあく持ち手がついた卓上湯差し(ポット)が登場。当時、魔法瓶の難点の一つとされていた水切れの悪さを解消し、以後、私たちが日ごろより使っているハンディポットの草分けとなりました。
ところでこの頃、虎印製品の販売価格は他社の1割高が普通でした。これは、業界に”虎印価格”より1割安とする建値の慣行があり、業界トップメーカーとしてプライスリーダーの役割を果たしていたためで、これは1965年(昭和40年)頃まで続きました。
1952
本社及び工場を大阪市大正区に合併移転。東京出張所開設
1953
社名を「タイガー魔法瓶工業株式会社」に改称
1955
本社・工場を大阪市城東区に移転、生産体制を強化。
昼は仕事、夜は新しいアイディアを図面化するという生活スタイルは、草創時代からの習慣となり、60歳を迎えた1955年(昭和30年)以降も開発への情熱はおとろえることはありませんでした。
武範の研究は社員が協力して支えましたが、図面の作成も早く正確で美しく、少しの狂いもなかったといいます。この研究心が、業界をリードする原動力となり、特許を取得した胴継ぎ瓶製法をはじめ、実用新案を盛り込んだ新製品の数々を生み出しました。