1923
大正12年
1923
大正12年
菊池武範、魔法瓶の製造・販売で独立開業
1923(大正12)年2月3日、創業者の菊池武範は「虎印魔法瓶製造卸菊池製作所」を設立しました。
少年時代の武範は尋常小学校を卒業後、父の事業失敗により高等小学校を中退し、愛媛から大阪へ丁稚奉公に出て家族を支えました。丁稚ですから、食事の順番はいつも最後です。冬も冷めたお茶とご飯しか口にできない毎日で、体が凍るような辛さを感じていました。そのさなかに船場ビジネス街のショーウインドウで西洋生まれの「魔法瓶」を知ります。武範は、魔法瓶に確かな魅力と将来性を感じ取ったのです。
一時、体を壊して実家に帰郷しますが、回復してから、かねて面識のあった魔法瓶の製造・輸出販売を行う山富商店に入社。20歳で独立するまでの5年間は、委託で山富の魔法瓶を仕入れて組立・販売をしながら資金をためました。
そして、1923年の開業に至ります。開業時の製作所の広さは13.5坪。郷里より呼び寄せた母と妹、住み込みの若者というわずか4人で魔法瓶の組立製造と卸販売を開始しました。
武範愛用のそろばん
当時使用していたそろばんケース
小判型 発売
- 「割れやすい」というイメージを覆す魔法瓶を目指し
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1923
大正12年
小判型 発売
小判型
「割れやすい」というイメージを覆す魔法瓶を目指し
当社創業者である菊池武範は、魔法瓶の製造・輸出販売を行う山富商店での3年間の修行、山富商店から中瓶とケースの提供を受けて組立・販売を行う委託という形での4年半を過ごしたのち、1923(大正12)年2月3日に「虎印魔法瓶製造卸菊池製作所」を設立しました。27歳の武範は、郷里から母と妹を呼び寄せ、これに住み込みの若い従業員1人を加えた計4人で製造・販売を開始します。
当時の魔法瓶の評価は「値が張るのに割れやすい」というもので、約90%が中国・東南アジアなどの海外に向けて輸出されていました。国内の潜在的な需要は大きな可能性を秘めていましたが、武範は独立以前より、品質を改善しなければいずれ魔法瓶市場が先細りになると考えていました。
武範の信念は、「商品を作り出す以上、人々から喜ばれ、愛されるものでなければならない」というものです。割れやすい魔法瓶では、たとえお客様にいっとき喜んでもらえても、愛される商品にはなりません。そこで、従来の魔法瓶の最大の弱点でありながら半ば放置されていた「割れやすさ」を克服する新商品の開発に挑みます。
良質な材料と独自の構造を取り入れる
まず、当時その数を増やしていた中瓶製造業者の中から、ひときわ割れにくいガラスを取り扱っていた弓削ガラス、桧垣ガラスと提携して中瓶を仕入れます。また、ケースと中瓶のあいだに段ボールを入れてクッション性を持たせ、中瓶を衝撃から守る独自構造を開発します。
新商品の形状は、当時主流であった「丸型」の魔法瓶との差別化を図るため「小判型」を採用。本体ケースは当時最高品質を誇っていた山中金属と葭谷金属から仕入れます。その材料は一般的なブリキではなく、真鍮を肩と底に、亜鉛引鉄板を胴体に使用し、サビにも強い魔法瓶を目指しました。
武範の自社商品への想いの強さと、商品の向こう側に消費者の生活を思い描く開発者としての真摯な姿勢によって、ガラスの耐久性だけでなく、ケースの耐腐食性の向上が実現したのです。
仕上げとしてケースに黒い模造皮革を巻き、黒い吊り紐をつけ、創業年である1923年に「小判型虎印魔法瓶」を発売します。茶色の魔法瓶が出回っていた時代にあって、虎印の黒い意匠は新鮮で、一見して目立つものでした。
「五倍力」をキャッチコピーに、リヤカーで販路拡大
当時、まだ当社には新聞やチラシで新商品の広告を打つほどの余裕はありませんでした。そこで武範は、中央に「五倍力 虎印マホービン」、その両側に「五倍の強さ」「永久サビヌ金属」「硬質硝子製」「弾力構造」と記した宣伝用のビラを作成。さらに値札には虎と当時の風俗を描いた挿絵、「夏は氷水 冬は熱湯」といった説明文を添えました。中瓶が破損した場合には、購入価格の3分の1の代金で新しい中瓶と交換する、という保証を謳った点も画期的でした。
この頃、武範は朝6時に起床し1人で組み立てを始め、8時からはリヤカーに商品を載せて得意先を回っていました。神戸や京都にも足を伸ばし、帰りは空のリヤカーをひきつつ、新たな注文を取ってきます。帰宅し夕食を済ませてからも武範だけは仕事を続け、深夜12時まで働くという日々を過ごしていました。
当時の宣伝ビラ
当時のラベル
関西での大成功と東京での大苦戦
小判型虎印魔法瓶の小売値は3合(540cc)のもので1円20~30銭と、他社の輸出向け魔法瓶が80銭程度だったことを考えると高値でした。
それでも、デザインや品質、アフターサービスが注目され、従来の魔法瓶のイメージを覆した小判型魔法瓶は飛ぶように売れました。発売から半年後には、虎印魔法瓶が京阪神市場の70%を占めるまでになったのです。
1923年6月、武範は東京へと進出します。よいものを作ったのだから、それを知ってもらえれば必ず売れると自信を持って乗り込みますが、ここで苦渋を味わいます。滅多なことでは取引先を変えない保守的な「関東商人気質」の前に、門前払いが続いたのです。1週間の滞在で50店舗に断られた末、最後に訪れた外山商店でなんとか話をまとめ、100本を置いてもらえることになりました。
思わぬきっかけから注文が殺到。東京市場を席巻
1923年9月1日、マグニチュード7.9の関東大震災が発生します。折しも、外山商店の紹介によって東京での取引先が少しずつ増え、希望が見えてきたところでした。通信、交通機関、ガス、水道、電気はすべて止まり、死者・行方不明者が約10万5000人にのぼった我が国最悪の自然災害です。
そんな中、外山商店を介して取引を開始していた大島商店の倉庫で、我が社の命運を左右する出来事が起こっていました。他社製のものを含め多数保管していた魔法瓶のうち、小判型虎印魔法瓶100本だけが無事だったのです。
このことはすぐさま業界全体に知れ渡り、東京中の金物問屋・医療器具店から当社に注文が殺到します。口コミの力が宣伝の大部分を占める当時にあって、急激にシェアを伸ばしました。
そしてその3年後には東京市場の85%を当社の魔法瓶が占めるまでになり、間もなく九州市場にも進出しました。武範の粘りによって東京でつないだ希望が、大きく花開いたのです。
4月 最初の商標「虎印TIGER」を出願(7月に公告)
最初の商標「虎印TIGER」を出願(7月に公告)
1923
大正12年
関東大震災発生 虎印魔法瓶が大評判に
菊池武範が開業と同時に注力したのは、独自の魔法瓶開発でした。「持ち運びしやすく、美観と強度を保った胴体ケース」を着想に、新しいアイデアと工夫を結集した「虎印」魔法瓶を発売します。「耐久性五倍力」をうたった虎印魔法瓶は、発売時の触れ込みの一つであった「アフターサービス」も奏功し、発売から半年で京阪神のシェア70%を占めました。
その後、京阪神地域での成功に自信を得て東京に進出しますが、市場は既に在京業者に独占されていました。東西の商人気質の違いもあり、1週間で50軒を回るも次々と断られるなど当初は苦戦が続きます。ようやく1軒の商店と取引を始めて間もない頃、情勢を一変する出来事に見舞われました。1923(大正12)年9月1日に発生した、マグニチュード7.9の関東大震災です。問屋の倉庫内も強い衝撃を受け、保管していた他社製品が破損しましたが、100本納められた虎印だけが1本も壊れなかったのです。この事実が業界中に広まり、虎印の品質の高さが知れ渡ると、瞬く間に注文が殺到。3年後には東京でのシェアが85%に至りました。
関東大震災
1925
大正14年
5月 「月星虎印」を商標登録
「月星虎印」を商標登録
1926
大正15年
「虎印」の東京市場占有率、85%に到達
9月 「月虎印」を商標登録
「月虎印」を商標登録
1930
昭和05年
会社を大阪市内の靱から同京町堀に移転
台湾、満洲への輸出を開始
1931
昭和06年
乳瓶(保温哺乳瓶)魔法瓶徳利 発売
1932
昭和07年
- アイスクリーム容器 発売
1932
昭和07年
アイスクリーム容器 発売
アイスクリーム容器
アイスクリーム店頭販売用製品。洋菓子店や、病院・駅の売店用によく売れ、アイスクリームの大衆化に貢献しました。
1933
昭和08年
会社を大阪市内の京町堀から同南堀江に移転
3合入り円筒型保温水筒 発売
1935
昭和10年
アユ釣り用魔法瓶 発売
1936
昭和11年
5月 菊池製作所を個人事業所から合名会社に改組して金属部門を強化
1938
昭和13年
5月 創立15周年記念祝賀会を関西・関東の両地区で開催
1939
昭和14年
5月 菊池武範、魔法瓶組合理事長に推され就任
1940
昭和15年
戦時の物資統制、金属ケースをアルミとベークライトなどで代用、製造維持
1943
昭和18年
5月 政府の企業整理統合により菊池製作所は「日本魔法瓶統制株式会社」に統合、南堀江の社屋を新会社に提供
1945
昭和20年
3月 大阪空襲で本社および工場を焼失
1946
昭和21年
1946
昭和21年
今里の地で再出発
戦前は、魔法瓶だけでなく哺乳瓶、徳利、アイスクリーム販売容器などの斬新な製品を次々と世に送り出しました。個人事業所から合名会社に改組して、海外貿易も大きく伸び「黄金時代」を迎えた菊池製作所でしたが、戦局が激化すると物資統制に苦しめられます。
太平洋戦争中の1943(昭和18)年には、政府の企業整理統合で菊池製作所は実質休業状態になりました。さらに終戦直前の大阪空襲で、大阪市内は焼け野原となり、当社の本社と工場も全焼してしまいます。
翌年、武範は、数少ない焼け残った今里地域の一角を、産業再開の中心地と見定めます。「虎印魔法瓶製造元 菊池製作所」の看板を掲げ、まずはバケツや洗面器などの家庭金物類を製造し、武範は自らリヤカーを引っ張って納品に駆けずり回り、再起を図りました。
1947
昭和22年
虎印魔法瓶の製造を再開
1948
昭和23年
1948
昭和23年
創業25年目の経営哲学「社是社訓」を制定
菊池武範は丁稚奉公時代に勤勉な働きぶりが認められて、商業簿記を学ぶ機会を得ました。この経験が後の創業に大いに役立ちました。
人材育成がいかに大切か、自らの体験で感じていたのです。しかし敗戦によって人々は昔ながらの道徳や価値観を失い、心を荒廃させていました。そこで「時代を超えて守りたい規範をまとめよう」との思いから、創業25年目の節目に「社是社訓」を示したのです。
「神祖崇敬」に始まる16の社訓(家訓)と、「最良品質」など仕事で守るべき16の基本理念を盛り込みました。32項目の中から特に大切な文言として「誠実、研鑽、努力」を抜粋し、1965(昭和40)年に営業指針となる「堅実、積極」を加えて「社是5項目」としました。
社是社訓
1949
昭和24年
3月 魔法瓶を一貫製造できる金属工場を設立
1949
昭和24年
「日新工業株式会社」に社名を改め、再法人化
1949(昭和24)年3月、虎印魔法瓶の製造一貫体制を敷くため金属工場を設立します。その2ヶ月後に、個人事業に戻っていた菊池製作所を再法人化して社名を「日新工業株式会社」と改めました。工場建設に多くの資金を投入したため、税法上有利な株式会社に改組して少しでも負担を軽くする必要があったのです。
一度は退かざるを得なかった東京再進出を図ると、戦前に築いた厚い信頼に助けられ、多額の前金で製造を本格化させることができました。
しかし折悪くデフレ不況に襲われ、翌1950(昭和25)年春には製造休止に追い込まれます。ところがその矢先、6月に始まった朝鮮戦争による軍需景気の影響で魔法瓶業界も活況を取り戻し、海外輸出を中心に生産量を増大させていきました。
社名を変えた今里時代の店舗(1949年)
1950
昭和25年
広口魔法瓶の台湾輸出を再開
ベークライト製卓上ポット 発売
- 燃やし続けた情熱が形となった卓上用ポット第1号
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1950
昭和25年
ベークライト製卓上ポット 発売
ベークライト製卓上ポット
時代に翻弄されながらも、魔法瓶事業の再開にこぎつける
1943(昭和18)年、前年に公布された企業整備令に基づき「日本魔法瓶統制株式会社」が設立します。当社は休業と社屋の提供を余儀なくされました。しかもその社屋も1945年の大阪空襲により全焼。創業者である菊池武範にとって、戦前の黄金時代を経て迎えた冬の時代となりました。
終戦直後、人々が必要としたのは魔法瓶ではなく、命をつなぐための生活必需品でした。そもそも魔法瓶の資材が手に入りません。今里の地で再出発した武範は、バケツ、洗面器、玉子焼き器、台十能、カルメラ焼などの家庭金物類を製造・販売しました。戦時中の金属品強制供出によってどの家庭も金物が不足しており、よく売れました。
資金の工面、人員の確保を経て、やっとの思いで魔法瓶の製造・販売が再開できたのは、1947年のことでした。この年は海外との貿易が再開された年でもあります。同年内の魔法瓶の輸出本数は業界全体で5万本に留まりましたが、翌年には100万本に急増。しかしさらにその翌年の1949年には1ドル=360円の単一為替レートの設定、およびインフレの収束と経済復興を目的としたGHQによる経済政策(ドッジ・ライン)がとられたことからデフレが進み、企業の倒産が相次ぐことに。ダンピング商品である100円の魔法瓶が国内で大量に出回り、120円の虎印魔法瓶は苦戦を強いられました。
背に腹は代えられぬと、一度は中止していた家庭金物類の製造を再開します。しかしここで朝鮮戦争が勃発。日本は軍需景気に沸き返り、魔法瓶業界も活況を取り戻したのです。ただ国内需要の回復はまだ先になると見通しをつけた武範は、戦前から取引のあった台湾への輸出に力を注ぎ、これが功を奏することとなります。
燃やし続けた情熱が形となった卓上用ポット第1号
戦中・戦後の混乱、景気の右往左往に振り回されながらも、武範は魔法瓶事業への情熱を燃やし続けていました。暇さえあれば新製品の図面を引いていた武範の姿が、当時の社員の声として記録されています。台湾貿易によって資金を確保した当社は、待ちに待った本格的な新製品の開発に取り掛かりました。
この頃開発された商品のうちの1つに、1950年発売の「ベークライト製卓上ポット」があります。水切れのよいペリカン型注ぎ口と、卓上用として使用するための持ち手のついたデザインは、魔法瓶といえば携帯用しかない当時にあって画期的なものでした。さらに卓上用であることを考慮し、持ち手を掴んだ手の親指で蓋を開けられるワンタッチ式に。これも武範が考案した仕組みです。現在では一般家庭や飲食店、宿泊施設など、「卓」のある場所で広く使用されているハンディポットの草分けとなる商品が誕生したのです。
なおベークライト(フェノール樹脂)とは、断熱性・耐熱性・加工性に優れた、世界初の合成樹脂です。武範は日中戦争のさなか、貴重なアルミの量を減らし、その大部分をベークライトで代用したポットを製造しています。物資総動員計画に伴う資材不足で廃業する業者があふれた時代において、ポットを量産し売上を確保することに成功しています。この経験も、ベークライト製のポットを開発・製造・量産するにあたって役立ちました。
毎日触れることのできる希望の光に
卓上用ポット第1号である「ベークライト製卓上ポット」は、それまで誰も考えつかなかったハンディポットとしての魔法瓶の使い方を世に提案した商品です。そのデザインや使い勝手のよさから、発売後は大変な好評を博しました。さらに当社は2年後の1952年、改良型として銅クロムメッキ加工を施した“だるま”と呼ばれる「グランドポット」を発売しています。時間が経っても、ちゃぶ台に手を伸ばせばお茶や水を温かいまま、冷たいまま飲めるという喜びは、戦後復興の途上にあった日本の一般家庭にとって、日常に溶け込んだ希望の光となったのです。
ベークライト製卓上ポットに顕著に見られるように、武範が開発した商品にはさまざまな工夫が取り入れられていました。その後も当社のハンディポットは、デザインや機能性・安全性における改良を重ね、長 きにわたり食卓のお供として欠かせない存在感を示し続けています。
1951
昭和26年
アイスボックス 発売
1952
昭和27年
2月 会社を大阪市大正区に移転
会社を大阪市大正区に移転
5月 東京出張所を台東区御徒町に開設